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かたびっこ その3
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1997-06-07
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13KB
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136 lines
☆
ぱちっ。頭の中、突然、誰かの指を鳴らす音。まなこに突き刺さる光の剣、感じる。頭の中は軽い酩酊の状態。無重力空間を彷徨う水の集合のような不定型が眼前を遮っている。だが、それも束の間の明順応。次第に風景は列車の内装に戻る。
夢か ・・・・・・ 。
僕はジャケットのポケットから煙草の箱を取り一本を抜き口にくわえ、しばらくしてから火を付けた。残りが一本。
変な夢 ・・・・・・ 。あんな夢は初めてだ。
脇腹や背中に嫌な感じのする汗、汗、汗。シャツと素肌の間に生暖かい空間を作っている。口の中にもその汗はこびり付いているようだ。煙草は湿った古新聞の味がする。
瘴気が僕の周りを繭のように囲み、僕はその内部に取り込まれているのだ。
いつもの味に戻るまで、僕は何度も乾いた唾を飲み込んだ。
足元の猫はさっきから時間が経っていないみたいに、僕が眠る前と同じ格好でじっと丸まっている。
どれくらい、僕は眠っていたのだろう?
長い夢だったような気もするし、それは一瞬のうたかたであったような気もする。でも、車窓の風景は漆黒の闇。列車の速度も変わっていない。猫、外、列車、何もかも、そのままだ。夢が少し長い瞬きの間に見た幻のように思えてくる。
外の空気が吸いたいな。
けれど、窓枠は錆付き、びくともしない。僕は仕方なくまだ長い煙草を床で踏みつけた。
みゃーう。
不意に、おとなしく眠っていた猫が鳴いた。動物特有の動作。首を上げ、耳を立てる。何かを嗅ぎとったのだ。猫はおもむろに立ち上がり、不自由な足を忘れたかのような動きでするすると僕の視界から消える。
背後で音がした。木と木が無理矢理、擦られた鈍く軋んだ音。すぐさま僕は振り返り、音の正体を確かめようとする。
ワンピースを着た少女の後ろ姿。車両と車両をつなぐ重そうな木製のドアを細い腕で丁寧に閉めているところ。 猫はその足元にいた。
閉め終わった少女が振り返った。
髪は今にも切れそうなくらい細く、薄い茶色のグラデーションで、腰まで真っすぐ垂れていた。黒いワンピースには白い線でヘレニズム的文様が描かれ、身体のラインをすっぽりと隠し、覆っていた。そして肌は透き通るように白く、唇は全ての赤血球が集合したかの如く赤かった。シンメトリックな顔の造作。歳は僕と同じか、少し下だろう、と踏んだが、自信はなかった。目の前に立つ少女は地下帝国に住むアルピナ族の姫のような気品とオーラを発散していた。
彼女は軽くお辞儀する。
僕もつられて、座ったまま頭を下げた。
彼女は小首を傾げ、一呼吸、間を置いてから微笑んだ。
悪魔さえ入る隙のない一連の仕草。
「私の猫の相手をして下さったのはあなた?」
想像通りの細い声が小さな唇から漏れる。
「はい、あなたの猫だったのですか」
僕も小さな声で答えてしまう。
彼女は腰を屈め、猫をそっと抱き上げた。猫は気持ち良さそうに小さく喉を鳴らす。彼女は僕の方にゆっくりと近付いてき、片手でワンピースの裾を揃えながら僕の前の席に腰を下ろした。両膝を軽くくっつけた彼女の腿のベッドに猫は収まる。僕といた時よりずっと落ち着いて見える猫。
僕の身体は小刻みに震えていた。前に座る少女のかもしだす雰囲気が僕をちっぽけなものにしているのだ。
でも、それは美しい異性を前にした時の緊張感とは少し違う感じがした。もっと高尚な、いや、高次の感情だ。これだけの美貌なのに僕の中には性的な好奇心がまるで浮かび上がってこない。無理に押し込めている訳でもないのに、身体のもっと奥でインセストタブーが働くように、性的興奮の回路がシャットアウトされている。
僕は静かに質問を投げ掛けた。
「何処から乗ってこられたのです?」
だが、彼女はすぐには答えず、ただ、眠りかけの猫を ・・・・・・ しかし、よく眠る猫だ ・・・・・・ 細い指でビーナスの髪をすくように撫で始めた。伏し目がちな視線を猫の背中の稜線でスローボートの櫂のように揺らしながら。
「私、飛びおりたの ・・・・・・ 」
彼女の言葉はそこで一度、途切れた。
「私、飛びたかった。飛べると思ったの。少しだけ飛べたわ。下から風を感じて。それから止まった」
彼女は視線をそっと上げた。僕を見ている。でも何処かおかしい。少しずれている。焦点が僕を通り越した向こう側、中空の明後日の方角に合わせられているのだ。
「止まって、どうしたの?」
彼女のペースに堪りかねた僕が次の言葉を促すように、訊ねた。
「止まって ・・・・・・ 分からないわ」
彼女はそう言うと、今の今まで架空の空を飛んでいたかのようにがっくりと肩を落とした。羽をもがれた天使のような表情。
ずっと前から、ここにいるの。ずっと前から」
「いつ頃から?」
「さあ ・・・・・・ 」
彼女は無表情に首を振った。
白痴か精神薄弱者なのだろうか ・・・・・・ 。天は二物を与えず、この法則が本当に働いているのならおかしくはないだろう。だが、僕はその考えをすぐ隅に押し退け、彼方に追いやった。彼女の言動は常軌を逸しているように思えたけれど、そうではないと確信するだけの理由が、うまくは説明できないけれど、僕の中にあった。
「実は、この列車が何処へ行くのか知らずに乗ってしまったのです」
彼女は猫を撫でるのを止め、埃っぽい窓枠に右肘を添えた。彼女は僕に左側の横顔を無防備に見せ、ただ、ぼんやりと外を眺めている。外は相変わらずの漆黒の闇。どちらに進んでいるのか分からないくらいの闇を彼女は見つめている。
「そのうち、分かるでしょう」
外を向いたまま、彼女がぽつりと言った。
「いつ頃?」
「さあ ・・・・・・ 」
僕はいつのまにか前に乗り出していた身体を背凭れにあずけ直した。
何を聞いても無駄なようだな。
みゃーう。
猫までが彼女に同調する。
僕は諦め、待つことにした。いつかは終点に着くのだ。永遠にこんなことが続くわけでもないだろうし。僕は悲しい性だが待つことに慣れているのだ。
僕も視線を窓に移した。
車内は相変わらず心地よい温度に保たれていたが、張り詰めた固い殻を拭い去ることは出来なかった。殻は僕と彼女の距離を近付けもせず、遠ざけもせず、頑丈な薄い膜で僕と彼女の濃度を混ぜぬよう隔てていた。
時折、さっきの夢が僕の脳裏を掠めた。夢の残像は気味が悪いくらいリアルものだった。だが、視線を外していても彼女の存在は大きく僕の心の大部分を埋め尽くしていたから、夢は断片的にしか現われなかった。夢の残像と彼女。ふたつはアンダーグラウンドの安っぽいシネマのようにコラージュされ、不安定な構図を作り上げ、僕を不可思議な思弁空間に置いていた。間にいる猫の存在が辛うじてそれを和らげてはいたけれど。
恐ろしく長い間、僕等は何も喋らなかった。でもそれはたぶん数分のことだったに違いない。その間も列車は僕と彼女と猫を ・・・・・・ その時僕はもう他の乗客がいるとは考えていなかった ・・・・・・ 乗せて走っていた。理想的な閉じられた系で等速直線運動を続ける隕石のように、止まる気配も見せず淡々と。規則正しい振動は未知の異次元に住む未知の生物の鼓動のように感じられ、僕はその胃袋に収まる未消化の虫けらのような心地だった。
そんな長い沈黙を切ったのは以外にも彼女の方だった。
「何を考えていますの?」
彼女の口振りが僕の心の中を見透かしたように聞こえたので、どきっとする。
「いや、自分自身のことやさっき見た夢のことを少しね」
僕は自分でも驚くほど正直に答える。
「私にも聞かせて下さる?」
僕は頷いた。
まず、駅のこと、何も分からないこと、猫のこと、列車に乗ったこと、そして長い夢のこと。
彼女は途中で何も口を挟まず、頷きもせず、表情も変えず、赤い唇を軽く閉め、聞いていた。それは熱心に聞いているようにも、ただ右から左へ流しているようにも取れた。僕は無反応の彼女を気にせず、気楽に喋ることだけを心掛けた。
そして、大体の粗筋を話し終えると、僕は最後にこう付け加えた。
「猫の鳴声で起こされたんだ。だから、もし猫が起こしてくれなかったらまだ僕は夢の中にいたかもしれない。まさしく悪夢のような回転木馬に乗ったままね。そのくらい後味の悪い嫌な夢だった」
彼女はそこで始めて訊ねた。
「それで何をそんなに考えてましたの?」
「いや、そんなに深くは考えていなかった。ただ、何となくぼんやりと夢の出来事をね。意味深げだろう、象徴的で。記憶を失ったことが原因だろうとは推測できるけど。でも今のところ僕の記憶を引き出せる鍵は夢しかないから」
「それであなたの結論は?」
「結論はないよ ・・・・・・ 」
僕には何も分からないんだ、と言いかけたがその言葉は飲み込んだ。
「 ・・・・・・ でもね、何か引っ掛かるところはある。でも何に、何処に、引っ掛かるのかは自分でもよく分からない。全体かもしれないし、一部分かもしれない。頭の隅で、考えるんだ、と命令しているような気がする。また頭の逆の隅では、考えるな、と言っているんだ」
僕は自分自身に言聞かせるように言った。
自分自身?
プラットフォーム以来、僕は自分の自我というものに自信を持てなくなっている。いや、今までは言葉上での自我しか意識できなかったのだ。今、僕は本当の意味での自我と戦っている。それはおそらく、僕という生命を授かってから二度目のことだ。生まれたばかりの赤ん坊の頃が一度目。今が二度目。蜃気楼のように揺れる自我の影法師を必死に捕まえようとしているのだ。
初対面の人に何故そんな話をするんだい?
話すのを止めた僕に、冷静になった僕の一部が耳元でそう囁く。どうしてだろう?分からない。だが、一度開かれた思考の堰は閉じるつもりもない様子で、あちこちで言葉の大水は氾濫している。言葉は唯一の出口、口元を目指し流れてくる。別の僕の一部は彼女に何かを話したがっているのかもしれない。
僕は脳髄のなすがまま、話を進めることにした。
「嫌なことがあった時、僕には二種類の回避法があるんだ。それは別に僕が考えたわけでも、生み出した方法でもない。人間って、ある程度の歳月を過ぎると、物事を対処する行動パターンが決まってくるものだろ。そんな二種類さ。
ひとつは、じっとしていれば時間は必ず通り過ぎるんだ、と言聞かせる方法。クローゼットの中に隠れていればモンスターは通り過ぎる、防空壕で耳を閉じていれば上空の爆撃機は母艦に戻る、そうやって自分に暗示をかけ思い込ませる方法だ。
そしてもうひとつが仮面を被る方法。自分の感情を押し殺して、まったく違う、大抵は心とは反対の表情を顔に作るんだ。言いたいことや思っていることを顔に出さず、ぐっと心の奥底に飲み込み、深く沈めてね。うまくその場をかわすために。
でもね ・・・・・・ 」
「でも?」
「気が付いたら待つことに慣れ、仮面は取れなくなっていた。その場を逃れるためだけの方法だったのに、離れなくなっていたんだ。僕の性格の一部として、身体の一部として完全に張りついていた」
僕の中で数々の嫌な思い出が駆け巡る。人から見れば些細なことなのに、眠れない夜になると僕を責め続けた、過ぎ去った取り返しの効かない思い出たち。頭の隅の重苦しい靄のようなもの。
僕はそれらを振りきるように一息ついた。
「最近、そんな自分が嫌になることが多くて、直そうと試みた。でも無理だった」
「どうして?」
「臆病だったんだろうね、たぶん」
「たぶん?」
「勇気がなかったのさ。素直に自分の思っていることを口に出すなんて、すごく勇気のいることだろう。今の世の中で素直に言ってごらん、下手すると気狂い扱いされちまうよ」
彼女は少し間を置いてから、本当にそう思ったのか小さくはっきりと頷いた。
「そのことと夢とどういう関係がありますの?」
「さあ、分からない。何となく繋がりがありそうに思えただけで。夢の神様にでも聞いてみてよ」
僕は冗談のつもりでそう言ったのだが彼女には通じなかった。彼女は真顔で返してくる。
「でも夢を見たのはあなたです。あなただからそんな夢を見たのですわ。そうでしょう?」
その通りだった。
僕だから見たのだ。僕だから。たとえ、電話帳一万冊分の言葉を並べても言い尽すことの出来ない僕という存在、全てが夢の原因なのだ。
夢は僕に何を語ろうとしているのだろう?僕に何を思わせたいのだろう?もし夢がひねくれた意識下の表層を映しだすものであるなら、さっきの夢は何を意味するというのだ?
磁場嵐にも似た目眩が僕を襲った。身体が何かに拒絶反応を起こしていた。僕は自ら提出した話題から逃げるかのように顔を背けた。
猫が柔らかそうな膝のベッドで喉を鳴らしている。しかし、本当に、よく眠る猫だ。
猫も夢を見るのだろうか?
もし見るとすれば、どんな夢だろう?
路地を擦り抜け、街を駆け、仲間を引きつれてごみ箱を漁る。陽のあたる暖かい縁側で実の息子のように可愛がってくれる老婦に抱かれる ・・・・・・ 。いずれにしても、仮面を被った猫の夢なんか見やしないだろう。起きてから、鏡に映るちっぽけな自分の姿に悲観することもないだろう。例えそれが、自動車に追われ跳ねられる夢であっても、袋小路で一見純真そうな子供達に石ころを投げ付けられる夢であっても、次の日、猫は街に出て自動車の間を擦り抜けたり、広場で遊ぶ子供達の前を平気で通り過ぎることが出来るだろう。
何故なら、猫は罪を犯していないからだ。
猫は決して自らに偽ることがないからだ。
もしかしたらこの世で一番の罪は自分を偽ることなのかもしれない。モラルなんて、少し発達した大脳を持つ哺乳類の一亜種が生み出した流行性の幻想かもしれないのだ。たった一度の魂に何の遠慮があるというのだろう。何に対して僕等は気兼ねをしているのだろう。対象は?
そう意味でなら、僕は幾つもの罪を犯してきた。ささやかで一見無害なように思えるが、僕だけのじゃない前世をも含めた罪が積み重なり、蓄積し、層を形成し、僕の身体を蝕んでいる。
だから、僕は街を平気で歩くことが出来ない。いつ自動車が暴走し追いかけてくるのか、いつアスファルトが陥没し灼熱のマグマに吸い込まれるのか、いつ高層ビルの工事現場から一本のねじが落ちてきて僕の頭を貫通するのか、いつもびくびくしながら歩いている。それでも、街を離れる勇気のない僕は、いつでも、何処でも、罪の意識を心の奥底に感じながら足首に見えない鉛の足枷を付け、歩いてきたんだ。
幼い頃、拾ってきた猫を家に持ち帰り母に度々叱られたことも、今から考えれば、そうすることで自らの罪の意識を軽く出来ると無意識の内に思っていたのかもしれない。嫌らしい偽善だ。
僕は、いや、僕等は猫になれなかったのだ。 創造主は僕に猫としての生命を与えず、人間としての生命を与えた。猫になるには失格だったからだ。
遥か中空、静粛なる雲海の絨毯。創造主は形骸なき前僕の魂に言う。
「君は猫になりたいそうだな」
前僕の魂は何のためらいもなくきっぱりと答える。
「はい」
創造主は僕のカルテ、生命が誕生してからの長い年月、僕の前世が巡ってきた樹形図を一通り見回し、チェックする。
カルテが閉じられる。
「それでは、ひとつの質問に答えよ」
「猫になるためならば、何なりと」
「よろしい」
創造主は背筋を伸ばし、表情を少し弛緩させ、天界に鳴り響く尊厳極まりなき鈴声で言った。
「汝は如何なる時も自らに偽らずと、言い切ることが出来るか」
「はい、如何なるときも」
創造主は静かに目を伏せ、カルテに印を押し、柔和な面持ちを崩さず簡潔に言った。
「不合格」
そして、前僕の魂は僕の母親の胎内に入れられた。そう、僕は猫になれずに人間になってしまったんだ。前世のあらゆる罪を背負ったまま。さらに現世の罪を重ねつつ。